ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス
ウォルシアヌス Volusianus | |
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ローマ皇帝 (共同皇帝) | |
ウォルシアヌス | |
在位 | 251年 - 253年8月 |
全名 | ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス Gaius Vibius Volusianus Augustus |
出生 | ? |
死去 | 253年8月 インテラムナ(現イタリア、テルニ) |
簒奪 | アエミリアヌス |
配偶者 | デキウス帝の娘 |
父親 | トレボニアヌス・ガッルス |
母親 | アフィニア・ゲミナ・バエビアナ |
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ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス(ラテン語:Gaius Vibius Volusianus、? - 253年8月)は、軍人皇帝時代のローマ皇帝(在位:251年 - 253年)であり、父ガイウス・ウィビウス・トレボニアヌス・ガッルスの共同皇帝の地位にあった人物である。
生涯
トレボニアヌス・ガッルスを父、アフィニア・ゲミナ・バエビアナ(en)を母として生まれた。姉妹にウィビア・ガッラがいたことが知られる。また、彼の妻は先帝デキウスの娘である。
251年6月頃にローマ皇帝デキウスおよび共同皇帝ヘレンニウス・エトルスクスがゴート族とのアブリットゥスの戦いで戦死すると、トレボニアヌス・ガッルスは後継のローマ皇帝に就くことを宣言し、息子ウォルシアヌスを共同皇帝とした。ウォルシアヌスは同時にプリンケプス・ユウェントゥティス(Princeps Juventutis)の称号を得た。なお、デキウスの息子ホスティリアヌスがローマで皇帝として就いていたものの、251年中に病によりこの世を去り、トレボニアヌス・ガッルスは単独でのローマ皇帝の座を手に入れた。
しかし、当時モエシア属州総督であったマルクス・アエミリウス・アエミリアヌスが軍の支持を得てローマ皇帝を称し、レボニアヌス・ガッルスへ反旗を翻して、ローマへと進軍を始めた。トレボニアヌス・ガッルスは軍を率いて迎撃へ向かったが、253年8月、自軍内の将校によってウォルシアヌスは父と共に殺害された。
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