守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。岡山県出身[1]。
経歴・人物
1926年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、同年に三菱航空機に入社した[1]。1962年に三菱重工業取締役に就任し、常務、副社長を経て、1973年に社長に就任した[1]。
1976年から1984年までに日本産業機械工業会会長も務めた[2]。
1971年に藍綬褒章を受章し、1977年にイランからホマヨウン第3級勲章と日本政府から勲一等瑞宝章を受章した[1]。
1990年7月24日呼吸不全のために死去[2]。83歳没。
脚注
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- ^ a b c d 「現代物故者事典 1988-1990 p644」
- ^ a b 1990年 7月25日 日本経済新聞 朝刊 p35
三菱重工業社長[1][2] |
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1884年 - | 三菱商会(1873年) - 長崎造船所(1884年) - 三菱社(1885年) - 三菱合資会社(1884年) - 三菱造船(1917年) - 三菱重工業(1934年) | - 岩崎弥太郎(1884年)・山脇正勝(1884年)
- 岩崎弥之助(1885年)・荘田平五郎(1886年)
- 岩崎久弥(1893年)
- 岩崎小弥太(1916年)
- 浜田彪(1917年12月 - 1932年)・武田秀雄(1918年5月)
- 斯波孝四郎(1920年2月 - 1942年2月)
- 取締役社長制・郷古潔(1941年2月 – 1945年10月)
- 取締役会長制復活・元良信太郎 (1943年4月 - 1945年10月)
- 玉井喬介 (1945年10月 - 1955年5月)
- 岡野保次郎 (1946年12月)
- 桜井俊記
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1950年 - | 東日本重工業(1950年) - 三菱日本重工業(1951年) | - 李家孝(1950年1月)
- 桜井俊記(1952年5月)
- 河野文彦(1961年5月) -
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中日本重工業(1950年) - 新三菱重工業(1951年) | - 藤井深造(1950年1月)
- 吉田義人(1959年5月)
- 藤井深造(1962年3月) -
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西日本重工業(1950年) - 三菱造船(1951年) | - 丹羽周夫(1950年1月)
- 佐藤尚(1959年5月) -
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1964年 – | |
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- ^ 岩井良太郎『日本コンツェルン全書3:三菱コンツェルン読本』(1937年、春秋社、国立国会図書館)、渋沢栄一記念財団『渋沢社史データベース』、野村インベスター・リレーションズ『三菱重工業の歴史』、他。
- ^ 1950年までで社長が明らかでないか不在の場合は、三菱財閥総帥もしくは三菱重工業会長、もしくは長崎造船所所長または支配人を含むか、或いは併記する。
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